10月31日の更新情報
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追加項目:鍾離牧・道教思想・潘皇后・谷利
鍾離牧:呉の武将。潘濬が武陵蛮を征伐しに出た時、鍾離牧は三千を率いて従軍したが、出陣中呉朝廷で鍾離牧は見捨てることが決議され後続の援軍が出なくなり大ピンチに陥ったが、結局朝廷で援軍を出す決議が出て助かった。しかしその後このことが気になって鍾離牧は魏への攻勢計画を上奏できなくなった
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年10月31日
道教思想:儒教・仏教と並び称される中国の主要な宗教の一。ただし三国時代に仏教はまだ一般的ではない。道とは宇宙と不滅の真理のことを指し、修行と薬品で道と一体化し仙人になることを目指す。中国の仙人は日本の仙人と異なり枯れておらず喰いまくりセックスもしまくる。房中術は道教と関わりが深い
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年10月31日
潘皇后:孫権の皇后。父は役人だが法に触れて死刑となった。罪人の娘は奴隷として宮中に送り込まれるが、孫権が見出した。呉の二代皇帝孫亮を産む。嫉妬深く多数の孫権の妻を讒言した。孫権が死にかけると前漢の呂后がどうやって政権を掌握したかを調べさせたり酷いので寝てる間に宮女らに絞殺された。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年10月31日
谷利:こくりさん。おいでください(来なくていい)。合肥の戦いで孫権が張遼から逃げている際橋が壊れていて大ピンチの時孫権の馬を鞭打ってジャンプさせ助けたのはこの人。親近監に任じられていたといい、孫権に側仕えしていたと思われる。寵に狎れて増長したりせず、孫権の身柄を一番に気にしていた
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年10月31日
9月3日の更新情報
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審配:最期に曹操に降らなかったので忠臣扱いされるが強情で他人と融和せず自分に利益誘導して派閥抗争を招いたのでそういう人を忠臣と評するのは如何なものか(彼の死後曹操が財産を没収させたら凄い量だったという)。曹操から城を頑強に守り内通者が出ても一度は破られなかったのはなかなかすごい。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年9月3日
陳羣:梁上の君子という言葉を編み出した陳寔の孫。この時代ちょっとのことで罪人は死刑になっていたので肉刑(身体の一部を切り落としたりする刑)を復活させ、殺人以外に適用すべしと提案したが却下さる。鍾繇だけ賛成した。あの鍾繇だけか…。人道的観点ではなく、人口を減らさないための施策だった
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年9月3日
楽進:元々記録係だったが曹操が募兵を任せたところ千人も集めて来たので将軍に起用された。身体は小柄ながら一番乗りの勇将として名を馳せた。また防衛戦でも結構戦功がある。李典・張遼・于禁と仲が悪かったと記録があるが、結局共闘できているので凌統と甘寧みたいに深刻な問題ではなかったのかも。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年9月3日
賈詡:病気で辞職して帰郷途中、異民族に攫われた。同行者は悉く殺されたが、賈詡は異民族討伐で名を馳せていた段熲の親族と嘘を吐いて脅迫し、解放されている。後に段熲の親戚かもしれない段煨に仕え、才能あり過ぎる所を警戒されていることに気付き脱走した。なお段煨は残された賈詡の家族を礼遇した
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年9月3日
8月21日の更新情報
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追加項目:陣形・陣形
陣形:そもそも三国志の時代の初期って土地の有力者が自分の手勢を持って集まっている状態なので統制何それ状態なので陣形を組むこと自体が大変難しいのね。曹操は歩戦令という書物に旗を目印に集まれ、勝手に持ち場を離れるな太鼓や鉦の音を聞いたらこうしろと取り決めを書いていて、まずここからなの
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月21日
陣形:おわかりと思うけど八卦陣とか八門金鎖の陣とかは演義の創作ね。しかし諸葛亮が八陣図なるものを書いたという記録があり、晋の馬隆がそれを活用して異民族を討伐したとあるが、内容は不明。『漢丞相諸葛忠武侯集』『諸葛丞相集』『武侯全書』などに八陣図の内容記述があるが、まあ信用できないす
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月21日
8月20日の更新情報
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追加項目:羊徽瑜・徐邈(リクエスト:お酒に纏わるお話)・郭泰(リクエスト:当時の装飾品)・典韋(リクエスト:特に壮絶な最期を遂げた武将のエピソード)
羊徽瑜:ようきゆ。羊祜の姉。司馬師の3番目の妻。司馬師は最初の妻を毒殺し、次の妻を離縁している。羊徽瑜は天寿を全うしたが、その間に子供はなかった。聡明で才知に富んだ女性であったといい、羊家の血ですかね。司馬炎が即位すると皇后の位を受けた。あの名将羊祜もコネかーと思うと少しがっかり
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月20日
徐邈:曹操が禁酒令を出したが、アル中なので勤務中も飲んでいたため曹操に詰問され「聖人中毒でした」と答え処刑されそうになった。鮮于輔が「聖人は清酒のことで濁り酒は賢人というアル中ジョークです。酔ってなければ良い人間なので許して」とフォローし免職で済んだ。フォローになってない気がする
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月20日
郭泰:大儒。李膺なんかと親交があり、王允を王佐の才と評価した人物。郭泰が通り雨に遭い、被っていた頭巾の角が折れてしまったが、周囲の人はそれを郭泰によるニューファッションと受けとめ、態々頭巾の角を折るようになった。人望がある郭泰なのでこれが広まり、「折角」の語源となったという説あり
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月20日
典韋:死に様は演義より正史の記述の方が凄いかも。典韋隊は全員が一人で十人を相手にし、典韋が戟を振るうと敵の矛が十数本砕かれ、戟を失った傷だらけの典韋は敵を両脇に挟んで撃殺。最後には突進し数人を殺してから、目を怒らせて口を開け、大声で罵りながら死んだ。その死後も敵は怖くて遠巻きに。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月20日
8月19日の更新情報
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追加項目:諸葛均・曹安民・賈南風・郭皇后(リクエスト:郭女王)
諸葛均:瑾・亮の弟。両親が亡くなると亮と共に従父玄を頼った(瑾は継母と共に江南へ逃れた)。玄は袁術派だったので劉繇とバトルになり負け、住民叛乱で死ぬ。その後亮と共に劉表のところへ身を寄せ、亮が劉備に仕えるようになると、均も出仕した。後に蜀で近衛兵を指揮する長水校尉まで出世する。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月19日
曹安民:安民はおそらく字。でも李典が安民という土地に駐屯したという記録があるので、安民の長の曹さんで曹安民かも知れない(豫州刺史劉備→劉豫州ってやつ)曹操の弟の子。父の名は不明。張繍を降伏させた曹操がよせばいいのに張繍の族父張済の未亡人に手を出したので叛乱された時に巻き添えで死ぬ
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月19日
賈南風:賈充の子。司馬炎の息子衷の皇后。残虐で嫉妬深く複数人を殺しているし、妊娠した衷の側室を胎児ごと殺したこともあるという。炎は激怒し離縁させようとしたが周囲の取り成しで許してしまった。許してしまったのかー。炎の死後無事権力闘争をはじめ西晋滅亡の原因八王の乱をスタートさせたぞ!
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月19日
郭皇后:曹丕の皇后の郭氏は字を女王という。家が没落したので召使となっていたが、曹操に見いだされ曹丕の女中になり、賢いので曹丕に気に入られて側室となった。甄氏の死後皇后となる。身を慎み身内への利益誘導をあまり行わなかったという。甄氏の死に関わったという話もあるが信憑性はどうかなあ。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月19日
8月17日の更新情報
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追加項目:文欽・文欽・程昱人肉事件・三国志大戦
文欽:父文稷の功績のため昇進したとか魏諷の反乱に連座させられそうになっても助かるとかいう話がある。気性が荒く礼節を弁えず、上司を馬鹿にして法令を無視するため人望がなかったという。それを曹叡や曹爽が庇うのでさらに付け上がったという。文鴦は可愛げがあるが父の文欽はわかりやすい真正クズ
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月17日
文欽:父の功績と武勇、曹爽の寵愛を笠に増長し、うまく行かなくなると反乱し、息子が力戦して突破口を開こうとして援軍を求めているのに日和って救援せず叛乱失敗して亡命先の呉でも孫峻に気に入られていることを笠に暴戻にふるまって嫌われたとかなんかもうすごい。仲違いで諸葛誕に斬られても残当。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月17日
程昱人肉事件:世説新語によると、曹操軍が食糧難になった際、程昱が略奪を行い食料を確保したが、その中に干し人肉が混じっていたので程昱は悪名を得て三公になれなかったという。でも世説新語は言わば小説だし、信じるのはなあ。やったら曹丕がいじるだろうし、三公就任直前に病死という記録もある。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月17日
三国志大戦:セガが編み出したアーケードゲーム。筐体の上に物理的なカードを配置し、そのカードの動きに合わせてゲーム中の部隊が動くという新しい操作系で人気を博した。それぞれのカードには武将が配され、裏面には豆知識が書かれた。これにより程昱の名前の由来などは三国志トリビアから滑り落ちた
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月17日
8月16日の更新情報
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記事数が775になりました。
追加項目:王濬・盧植・盧植・盧植
王濬:呉討伐の際に軍令無視して孫皓を降伏させ王渾と揉め、さらに無断で呉の軍船百余隻を勝手に焼き、功績を誇って暴言を吐いたり不満を口にしたりとまさにやりたい放題で全部許した司馬炎がなんだか心が広く思える。司馬炎は孫皓も無罪放免にしており実際心が広そうだが陳寿はやり過ぎと指摘している
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月16日
盧植:董卓が朝廷を牛耳っていた際董卓にきちんと文句を言うレア人材だったため殺されそうになるが蔡邕らのとりなしで免職だけで済んだ。その後都から脱走し董卓の追手からも逃げ切る。曹操と言い董卓はこんなの多いな。その後幽州で隠居していたが冀州牧となった袁紹に招かれて仕えその直後病死した。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月16日
盧植:黄巾の乱でのエース皇甫嵩・朱儁と肩を並べる存在。張角本軍と対決し大撃破。数万人を斬る功績を立てたが逃げた張角本軍に最後の仕上げと攻め立てていたところ霊帝が派遣した宦官左豊が視察に現れ、盧植は賄賂を渡さなかったので讒言され左遷された。戦後皇甫嵩が盧植を激賞したので尚書へ復帰。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月16日
盧植:竇武に「系図下位の霊帝を立てたのはおかしい」、霊帝に「私利私欲に走るな」、何進に「宦官潰しに董卓を呼んだら制御不能になるぞ」、董卓に「帝の廃立などとんでもない」と進言したが全部無視された。助言無視されマン。あまり知られていないが死の直前袁紹の軍師となっているがそれって……。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月16日