11月12日の更新情報
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追加項目:何攀・何攀・唐彬・楊俊
何攀:蜀滅亡後王濬が益州刺史となり別駕として招いた人。呉討伐用の軍船建造の命が下ったが、人手不足だったので何攀は休養兵を使うことを進言した。王濬「勝手に兵を動員するのやばない?」何攀「朝廷では呉討伐慎重派が多いから許可降りない。完成させちゃえば勝ち」滅呉主義の王濬はよしとした。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年11月12日
何攀:イケメン。王濬の軍師的人物。何攀の進言により王濬は勝手に兵を動員して呉討伐用の軍船建造に着手した。しかし伐採ポイントが遠い。何攀「墳墓に植わってる松や柏を使っちゃえ。残りは市場で買おう」結果長江の色が変わるほど木屑が流れ出すハイパー突貫工事でついに呉討伐の準備が整った!
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年11月12日
唐彬:監巴東諸軍事として益州刺史王濬と共に呉討伐に乗り出した。以前散騎常侍文立に欲深野郎と指摘されていた割には呉滅亡間際に呉の軍隊の有様を見て孫皓が降伏するのは時間の問題と考え、仮病で進軍を停止した。すると先に建業に到達した軍は戦功争いしたり物資の略奪合戦したので唐彬は称賛された
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年11月12日
楊俊:司馬朗の高評価の中、司馬懿を見出した彼にとっての大恩人。後に魏諷の乱に連座して左遷され、曹丕が即位すると復帰する。しかし家督争いでは曹植派だったため、部下の過失というほぼ冤罪で死を賜った。司馬懿らは頭を床に叩き付け流血して許しを乞うたが曹丕は許さなかった。この恨みが後に…。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年11月12日