1月12日の更新情報
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公孫瓚:韓遂・辺章の乱の鎮圧に参加希望した張純を無視し張温は公孫瓚を抜擢した。すると張純は異民族の丘力居と組んで反乱を起こし、公孫瓚らは数回勝つも鎮圧には至らず。そこで劉虞が幽州牧に赴任し、丘力居を懐柔して帰順させた。公孫瓚はこの懐柔工作を功名心から妨害した為、陳寿に罵られている
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日
公孫瓚:異民族強硬派。「異民族は制御できない。服従しないなら討伐せよ。懐柔したらつけあがり朝廷を軽視する」と考えていたため、穏健派の劉虞と対立した。しかし劉虞が異民族に与えた恩賞をいつも略奪して自分の懐に入れていたというのでは、本当に朝廷のために異民族強硬派をしていたものかどうか
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日
当時の水上戦:当時の鎧は装着というよりも着るタイプで柔軟性があるが、やっぱり重いのでそんなのを水上で着ていたら水に落ちた時に死ぬしかないので水上戦ではあまり用いられなかった。そこで活躍したのが牌と呼ばれる盾。この時代ではあまり盾は用いられないが例外的に水上では盾が活躍している。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日
周浚:彼が弋陽にいた頃、蔡珪の手紙を得た。「古来、敵対国同士でも使者は往来しており、高潔さを競い合うべき。なのに交易の市を襲って得た物を功績とする奴がいてダメだ」周浚は感心して呉滅亡後蔡珪を登用し出身地を聞いた「汝南です」「同郷か! 呉に君子が居る筈がないと思ってたんだよ!」おい
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日