5月1日の更新情報
これまでのエントリで指摘があった点やおかしいと後から気づいた点に修正を行います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
項目数が822になりました。
・削除
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司馬徽:門弟に以下のような人物がいる。龐統、徐庶、向朗、尹黙、李仁(子が李譔)、韓嵩、劉廙、石韜(広元)、孟建(公威)、崔州平。孟建が出世頭で州刺史に達した。おや、諸葛亮の名前がない。諸葛亮はこの辺の人物と友達ではあったようなんだけど司馬徽門下だったという明らかな記録はないですね
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司馬徽門弟の判定がいい加減すぎるとの指摘があり、調査して自分でもおかしいと思えましたのでこの項目は削除とします。
・削除
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北伐:元々の諸葛亮の打倒曹操勢力計画では荊州と益州が連携して同時北方攻めなので、実際の北伐では荊州がもう手元にないのですでに計画外、無理ゲーなのだ。そう考えると何で荊州の関羽の北上が益州の劉備の漢中攻めと同じタイミングでなかったのか滅茶苦茶謎なんだが、なぜなんだぜ。
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これね、タイミングこそ同時ではないんですけど連携作戦ではあるようなのでこの物言いはおかしいので削除とします。
・修正
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陸康:呉郡の名族。陸績の父。廬江太守として異民族十余万と組んだ叛乱を鎮める辣腕。しかし袁術の兵糧の援助要請を断ったためにデストロイヤー孫策が派遣され二年包囲されて敗北、直後病死。一族離散し飢えて半数以上が死んだという。ちなみに陸遜は攻撃される前に一部の親族を率いて脱出している。
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陸康:呉郡の名族。陸績の父。廬江太守として異民族十余万と組んだ叛乱を鎮める辣腕。しかし袁術の兵糧の援助要請を断ったためにデストロイヤー孫策が派遣され包囲されて敗北、直後病死。一族離散し飢えて半数以上が死んだという。ちなみに陸遜は攻撃される前に一部の親族を率いて脱出している。
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孫策は2年間も包囲してなかったので2年の記述を削除します。
・修正
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一騎討ち:そもそも一軍の将たる人がケガしたり死んだりすると軍全体に影響があるんだからお話(演義)でもない限り一騎討ちなんかしないでしょ常識的に考えて……と思ったら呂布対郭汜、閻行対馬超と2カードの一騎討ちの記録が確認できた。両カードとも一応引き分け(郭汜、馬超は劣勢で負傷した)。
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一騎討ち:そもそも一軍の将たる人がケガしたり死んだりすると軍全体に影響があるんだからお話(演義)でもない限り一騎討ちなんかしないでしょ常識的に考えて……と思ったら呂布対郭汜、閻行対馬超、孫策対太史慈と3カードの一騎討ちの記録が確認できた。全カード一応引き分け(怪我人はいる)。
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10月7日の更新情報
記事数が824になりました。
追加項目:曹操・曹操・満寵・魏の江東防衛
曹操:対ナポレオン戦略としてヨーロッパ各国が考えたものにライヘンバッハプランというものがある。ナポレオンはクソ強いので奴が来たら退き、奴がいない戦線で戦うというものだが、曹操も近いところがあり曹操がいない曹操軍は割と弱い。劉備はこれで漢中で勝ち、荊州で負けて超びっくりする羽目に。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) April 8, 2019
曹操:曹操アンチ書物『曹瞞伝』には、軽々しくて威厳のないやつ、とある。ただの悪口かなと思うが、お前は悪来、我が子房、蕭何だ周亜父だと人を簡単に超偉人に比するし、官渡で荀彧に弱音メールして叱られるし、勝利後配下の内通の証拠を見つけても見ずに焼いたのも度量じゃなくて怖かったんでは……
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) April 28, 2019
満寵:晩年は江東方面の防衛に携わった。呉の孫布が投降したい旨申し入れたので、王凌は受け入れようとしたが満寵は「いつもの呉」と反対した。すると王凌は「満寵はボケたしアル中なので罷免すべき」と上奏し満寵は洛陽に召還され、満寵は留守番に王凌に注意するよう言い残したが罠で大損害を受けた
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) April 13, 2019
魏の江東防衛:演義では北伐ばかりクローズアップされるが結構魏と呉も殴り合ってるんです。呉のターンでは合肥・合肥新城が戦場となる。張遼・満寵・曹休・諸葛誕と錚々たる武将が守備に就き、この地の重要性がわかるが、李典・楽進・王凌・賈逵・文欽となんか必ず主将と相性悪いメンバーが同時にいる
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) March 26, 2019
5月24日の更新情報
孔融:司徒楊賜に招かれ初めて就職。河南尹の何進が大将軍になるので、楊賜は孔融を祝賀に遣わしたが、会えなかったので孔融はキれて名刺を奪い返し「俺が悪いです!」と置手紙を司徒府に残し故郷に帰った。河南尹官属は孔融を殺そうとしたが、何進は却って孔融を招聘した。なお孔融は同僚と揉めて辞職
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 24, 2018
孔融:司徒楊賜に招かれたのが初めて官途に就く切っ掛けとなった。その楊賜の子が楊彪。楊彪は曹操に処刑されそうになったことがあるが、孔融が曹操に逆らうのはこの辺の関係かも。なお楊彪の子は楊修。ちなみに王沈『魏書』によると袁紹は曹操に楊能や孔融を処刑するように命令したことがあるという。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 24, 2018
孔融:董卓が好き勝手を始めると、孔融は正論をぶつけた。董卓は北海の黄巾がひどいのを見て孔融を北海相に任命した。赴任した孔融は学校を作り鄭玄、彭璆、邴原らを推挙するもそれじゃ勝てないので太史慈とか劉備とかを頼った。劉備は孔融の名声を知っていて感動したというが、藁にも縋るってやつでは
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 24, 2018
4月24日の更新情報
記事数が817になりました。
龐統:鳳離の異名をとり、落鳳坡という地にて死んだというのはできすぎなのでやっぱり演義の創作なのだが、落鳳坡という地名は実在する。演義が充分に知名度を得た後、後付けされた地名と思われる。ちょうど荊州から雒城(を経て、成都)へ向かう途中、雒城のほど近くにある。坡は坂という意味。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年4月24日
鮮干輔:異民族っぽい姓。出身が幽州漁陽郡で鮮卑と関係あるかも。異民族に寛容な政策をとっていた劉虞に仕えていたが、彼は異民族しばきマン公孫瓚に殺されてしまった。袁紹と組んで公孫瓚を潰すと、抜擢した田像が曹操に帰順せよとし従う。官渡戦後幽州6郡を任され、北方民族との交渉窓口となる。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年4月24日
呂布:一時期袁紹の下にいたことは有名ではない。界橋の戦いで公孫瓚を叩いた袁紹が今度は黒山賊張燕と戦っている最中に呂布が袁術から追い出されて来たので受け入れ起用した。大活躍してこの時に「人中の呂布、馬中の赤兎」という言葉が生まれた。戦いが終わったら勿論走狗烹られそうになって逃走した
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年4月24日
4月1日の更新情報
エイプリルフールではありません。
リクエスト対応です
記事数が814になりました。
「袁紹派・袁術派をそれぞれ列挙してほしい」については字数制限のためパスとさせてください。
これで5000フォロワー記念リクエスト対応を終了とさせていただきます。1年以上かかってしまい申し訳ありませんでした。たくさんのリクエストありがとうございました。
追加項目:劉虞(聖人イメージがある人物のクズエピソード)・食事(当時の食事について)・歩隲
劉虞:皇帝に推戴してやるみたいな話は勿論蹴り、質素倹約を旨とし、戦争するのに「公孫瓚以外の者は斬るな!」と配下の兵に命じて軍が混乱し負けて殺されたという高潔な人物。しかし彼の死後屋敷を捜索すると妻妾はめっちゃ着飾っていたので本性を疑われた。でもこれは公孫瓚の兵が言ったことなのでね
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年4月1日
食事:三国時代の食事の詳細はレシピ的な物が残っていないので断片的な記述から窺い知るしかない。鶏肋って言ってるから鶏は食ったんだろうなとか、司馬炎が蒸し豚を食べたら美味だったが人乳で育てられた豚だと聞いて気を悪くしたとか。後曹丕・何晏がフルーツ話を残しているのでフルーツ事情が分かる
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年4月1日
歩隲:孫権が即位すると、陸遜と交代で西陵の守備を任された。西陵駐屯は20年にもおよび、歩驚死後は子の歩闡に任務が引き継がれた。なお家督を継いだのは闡の兄の協である。孫悟が暴政を開始すると闡は不安に感じ西陵ごとに降伏し、頑強に抵抗するも晋からの援軍が陸抗に壊滅させられ、西陵も陥落。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年4月1日
1月14日の更新できない情報
リクエスト対応できない情報です。
記事数は811のままです。
-陳到特集
これリクエストした人も無理だってわかっててリクエストしてるでしょ! 情報がありませんのでむりです。
-魏の五将軍と蜀の五虎大将との比較
五虎大将は演義の創作ですのでこのbotの内規により非対応となります。なお五虎大将は魏の五将軍に対抗して作られたという話があります。
-漢末と三国それぞれの官職について(三国時代には置いてないとか呉だけに置かれた左丞相とか。またそれぞれの国で役割が違う場合はどう違うか等)や、 それらが現代ではどういった役職に近いのか
これは文字数からtwitterで扱うのは無理な話題ですね。ご期待には一部しか応えられませんが拙著を読んでいただければと思います。
1月12日の更新情報
リクエスト対応です
記事数が811になりました。
公孫瓚:韓遂・辺章の乱の鎮圧に参加希望した張純を無視し張温は公孫瓚を抜擢した。すると張純は異民族の丘力居と組んで反乱を起こし、公孫瓚らは数回勝つも鎮圧には至らず。そこで劉虞が幽州牧に赴任し、丘力居を懐柔して帰順させた。公孫瓚はこの懐柔工作を功名心から妨害した為、陳寿に罵られている
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日
公孫瓚:異民族強硬派。「異民族は制御できない。服従しないなら討伐せよ。懐柔したらつけあがり朝廷を軽視する」と考えていたため、穏健派の劉虞と対立した。しかし劉虞が異民族に与えた恩賞をいつも略奪して自分の懐に入れていたというのでは、本当に朝廷のために異民族強硬派をしていたものかどうか
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日
当時の水上戦:当時の鎧は装着というよりも着るタイプで柔軟性があるが、やっぱり重いのでそんなのを水上で着ていたら水に落ちた時に死ぬしかないので水上戦ではあまり用いられなかった。そこで活躍したのが牌と呼ばれる盾。この時代ではあまり盾は用いられないが例外的に水上では盾が活躍している。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日
周浚:彼が弋陽にいた頃、蔡珪の手紙を得た。「古来、敵対国同士でも使者は往来しており、高潔さを競い合うべき。なのに交易の市を襲って得た物を功績とする奴がいてダメだ」周浚は感心して呉滅亡後蔡珪を登用し出身地を聞いた「汝南です」「同郷か! 呉に君子が居る筈がないと思ってたんだよ!」おい
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2018年1月11日