7月20日の更新情報
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追加項目:司馬幹(リクエスト:平原王司馬幹)・曹叡(リクエスト:討大曹の予言)・唐彬・西南夷(リクエスト:南蛮や匈奴などの異民族の人物や文化)・匈奴(リクエスト:南蛮や匈奴などの異民族の人物や文化/当時の服や生活)
司馬幹:司馬懿のむすこG(H説もあり)。母は張春華。平原王。八王の乱の八王ではない。西晋宗室が混乱し始めると、甥の司馬冏に「専横して殺された司馬倫のようになるなよ」と婉曲に伝えたが、冏は結局専横して殺された。幹は「冏が一番マシだったのに。もう宗室ダメかも」と嘆き、そうなった。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月20日
曹叡:前漢の頃「魏の年に三千里ほど西方で石が開いて馬五頭が繋がれて『討曹』と書かれている」と予言する者がいた。青龍三年に石の馬等の石像が発見され「上上三天王述大會討大曹金但取之金立中大金馬一疋中正大吉關壽此馬甲寅述水」とあった。曹叡は討大曹が嫌で計大曹、魏への瑞兆に書き換えたが。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月20日
唐彬:鄧艾、鍾会の乱の後、司馬昭は唐彬を蜀に派遣して情報収集させた。唐彬は的確な報告をし歓心を得た。司馬炎の代、益州監軍に欠員が出、候補が唐彬と楊宗だった。文立が「唐彬は強欲、楊宗はアル中。どうする」と言うと司馬炎は「金銭欲満たせば良いので強欲の方がマシ」と言い、唐彬が任命された
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月20日
西南夷:三国志演義だと南蛮と書かれる人たちは正史では西南夷と書かれている。蜀南部から雲南あたりまでに住んでいる民族の総称。蔵(チベット)、傣(タイ)、苗(ミャオ)、冉駹、哀郎、滇、邛、雟、筰とか色々いる。夜郎自大の夜郎があったのもあの辺。交州に繋がるエリアで交易的にうまみがあった
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月20日
匈奴:戦国時代から中国を悩ませる騎馬民族。中国で騎兵が生まれたのは北方騎馬民族の戦い方を真似たためで、騎乗するためのズボン状の服は当時胡服(胡は異民族のこと)と呼ばれて馬鹿にされた。後漢の頃は弱体化していて鮮卑に圧迫され、後漢や魏の下にあり中原に身を寄せ戦争に駆り出されまくってた
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月20日