4月18日の更新情報
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追加項目:譙周・陳祗
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譙周:陳寿の師匠。蜀の儒者・学者。蜀の地は後漢建国者の光武帝と蜀に割拠し争った公孫述の部下楊春卿が興した讖緯(予言)の学問「蜀学」の本場。劉焉に「益州には天子の気があり」と唆した董扶も蜀学の徒で、譙周もその大家。「他国に寄りて天子と為る者無し」と劉禅に降伏を促し、晋で尊重された。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月18日
陳祗:ちんし。許靖の縁者。費禕に取り立てられ、その死後は姜維の北伐中内政を見た。陳祗の死後、しばらく姜維は北伐ができない状態になるほど。このように北伐容認派だが、一方で黄皓と結託していたともされる。龐統の子龐宏が陳祗を舐めた態度を取るので圧力を掛けて昇進させなかったなんて話も。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月18日
4月14日の更新情報
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追加項目:華佗・譙周
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華佗:後漢書では方術伝に記載がある。方術とは占いや不老不死の技術、医術等の総称。怪しげと言ったら言い過ぎだけど、技術者みたいな感じで、いわゆる士大夫からは下に見られる。華佗はそれが不満で曹操の下から去り、処刑されることになる。陳珪から孝廉に推挙された時に応じておけばよかったのに。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月14日
譙周:蜀の儒者。天文・讖緯(予言)に詳しく、魏の簒奪や司馬昭の死を予言した。初めて諸葛亮と面会し、譙周が退出した後に諸葛亮の部下が笑い出したので、失礼だからそいつを処罰しろと他の部下が言い出したが、諸葛亮は「や、俺も我慢できなかったし」と庇った。寝癖ボサボサとかで面会したのかね?
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月14日
4月13日の更新情報
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馬良:四男というのは「馬氏五常」と字の「季」の文字からの推測。劉備が荊州南部を支配すると従事として取り立てた。入蜀の際には荊州に残る。諸葛亮にも同行しなかった。夷陵の戦いに従軍すると、荊州南部の異民族武陵蛮を懐柔し帰順させる(おそらく沙摩柯を含む)。劉備軍の大敗で馬良も敗死した。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月13日
夏侯覇:淵の子。七人兄弟の次男。司馬懿がクーデターを起こすと、自らの災難を恐れ蜀へ亡命する。父の仇の国なのに、思い切ったもんだ。弟の夏侯威は司馬氏に重んじられたので、覇の怖がり過ぎでは? という気もする。死期・死因共に不明だが戦死ではなさそう。何と関羽とかより先に諡号を貰っている
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月13日
4月11日の更新情報
記事数が740になりました。
追加項目:公孫晃・馬良
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公孫晃:康の長男。度の孫。父が死んだ時幼少だったため叔父の恭が継ぐ。晃は洛陽に半分人質として出て公孫氏の地位が保障されていたが、恭が無能で不満が高まっていた際に康の弟淵が太守の座を奪取する。晃は淵を危険と看做し討伐を進言するが却下。で、後から淵の叛乱に連座させられ処刑される気の毒
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月11日
馬良:故事成語「白眉」の由来の人。白眉と言っても「眉毛に白い毛が混じっていた」というレベルであり、真っ白だったわけではない。ファミコン版「天地を喰らう2 諸葛孔明伝」ではオープニングで「まゆがゆきをおいたようにしろく」とか書かれてありもっともらしくさらっと話を盛り過ぎである。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月11日
4月10日の更新情報
記事数が740になりました。
追加項目:公孫度・公孫康
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公孫度:幽州遼東の人。よく勘違いされるが公孫瓚の一族ではない。徐栄と友達だったので董卓から遼東太守に任じられる。度は地元で自家が侮られているのを知っていたので、赴任するなり名族を滅ぼしまくった。董卓死後は辺境のため半独立状態になり、曹操が与えた官職を不満に思い印綬を仕舞い込んだ。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月10日
公孫康:公孫度の子。度の死後遼東太守を引き継ぐ(本来太守は世襲ではない)。烏桓の指導者や袁煕・袁尚兄弟らが逃げてくると、曹操が怖いのでこいつらを殺して首を差し出し、襄平侯に封じられる。長男の晃は康が死んだ時幼少のため弟の恭が継いだが、恭は性・政的不能者だったため康の弟淵に簒奪さる
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月10日
4月6日の更新情報
記事数が738になりました。
追加項目:楊阜・楊阜
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楊阜:馬超の宿敵。袁紹で曹操が勝つことや馬超の再叛乱を見抜いたりした。しかし曹操が助言を用いないので馬超に攻められ、周囲が降伏する中楊阜の冀城だけ陥落しなかった。しかし上司の韋康が降伏してしまう。馬超は約束に違反し韋康を殺したので楊阜は復讐に走る。以降家族や縁戚を殺し殺される仲に
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月6日
楊阜:涼州通じた軍事エキスパートであり、遅れを取ることもあるが概ね馬超を防ぐ。曹操が涼州を確保できたのはこの人のお陰。馬超が劉備の下に行った後も武都で曹洪と馬超を防いだ。この時曹洪主催のストリップショーを諌止した。曹丕は用いる前に崩じた。曹叡にきつく諫言したらなんかその頃死んだ。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月6日
4月5日の更新情報
記事数が736になりました。
追加項目:李典・王/公
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李典:済陰郡乗氏県の人。従父の李乾が曹操の挙兵に応じて麾下につく。李乾は呂布配下薛蘭・李封に殺され子の李整が後を継いだ(これが張遼との不仲の理由?)。李整死後その兵を預かり活躍する。謙虚マンで儒学にも通じ軍でも称えられた。一族を鄴に移住させ曹操に喜ばれ、破虜将軍に任命された。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月5日
王・公:漢の建国者劉邦は叛乱防止観点で「劉氏以外で王になるものがいたら天下皆でこの者を討て」としており、混乱期以外は守られていたので、曹操の魏公即位は大問題だったはず。王じゃなくて公じゃんと言っても、この公国が前漢初期の王国並みに規模が大きかったので実質王なのだ。その後王になるし
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月5日