7月1日の更新情報
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記事数が753になりました。
追加項目:降伏の礼(リクエスト:燕)・燕・周泰・王元姫(リクエスト:司馬昭の嫁)・魏延
降伏の礼:降伏する儀礼があって、きちんとやらないと「マジで降伏する気あんの」みたいな話になる。素車白馬(白い葬式用の馬と馬車)肉袒面縛(上半身裸で後ろ手に縛られる)銜璧牽羊(宝玉を口に含み羊を引いて進物とする)大夫衰服(喪服を着る)がメジャー。肉袒しないので公孫淵は降伏を蹴られた
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月1日
燕:公孫淵は自らを燕王と称した。燕というのは公孫淵の支配エリアの地名で、戦国時代にもあのあたりに燕という国があった。魏とか晋とか呉とか宋とか、国の主君が本拠地にした土地からだいたい国の名前が決まっていく。なので混乱期にたくさん国が乱立すると他の時代で見た国名がたくさん出てくるわけ
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月1日
周泰:幼平という字から末っ子であろう。孫策に仕えるが、孫権は特に頼んで周泰を自分所属にしてもらった。周泰が傷だらけになり孫権を傷だらけになって守ったのはその後のことであり、士は己を知る者のために死すとはこのことだ。関羽討伐後漢中太守に任じられており、孫権は攻め込む意思があった?
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月1日
王元姫:司馬昭の正室。賢く徳義も備え、祖父の王朗は「何で男に生まれなかったんや……」と悔いたという。鍾会について「自分の利益ばっかり見て義を忘れる。揉め事好き。重用すると国が乱れる」とコメントしていたのに司馬昭は相性悪そうな鄧艾と組ませて蜀討伐に赴かせ叛乱された。わざとだろ司馬昭
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月1日
魏延:昔は大謀反人扱いだったが最近は見直され劉備が好き過ぎて諸葛亮とは相性が悪く、楊儀とは同族嫌悪的な何かみたいな扱いが増えてきた。韓玄の下にいて裏切ったというのは演義の創作だし、諸葛亮死後の行動も魏に同調したわけではないし。楊儀が嫌い過ぎただけで、裏切りマン扱いは不当だったね。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年7月1日
4月26日の更新情報
記事数が748になりました。
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朱儁:揚州の人。その繋がりで孫堅を召し出したりしている。反董卓の一角を担ったが、董卓死後陶謙・孔融・鄭玄らは献帝を迎えようと言っていたのにリカクシ朝廷から召し出されたら応じてしまった。皇甫嵩といい黄巾討伐の驍将はなんか朝廷に夢持ち過ぎと言うか。そしてリカクシの内紛が原因で死ぬ。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月26日
三国志の「終焉」:日本人は諸葛孔明が大好きなので彼が死ぬと終わりにしてしまいがち。日本の三国志の原点吉川三国志がそうだからというのもあろう。でも姜維が活躍する柴錬三国志とか反董卓連合が虎牢関を抜いた時点で終わる「天地を喰らう」「覇王の剣」なんて三国志もあるよ(それは打ち切りだ)
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月26日
4月18日の更新情報
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追加項目:譙周・陳祗
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譙周:陳寿の師匠。蜀の儒者・学者。蜀の地は後漢建国者の光武帝と蜀に割拠し争った公孫述の部下楊春卿が興した讖緯(予言)の学問「蜀学」の本場。劉焉に「益州には天子の気があり」と唆した董扶も蜀学の徒で、譙周もその大家。「他国に寄りて天子と為る者無し」と劉禅に降伏を促し、晋で尊重された。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月18日
陳祗:ちんし。許靖の縁者。費禕に取り立てられ、その死後は姜維の北伐中内政を見た。陳祗の死後、しばらく姜維は北伐ができない状態になるほど。このように北伐容認派だが、一方で黄皓と結託していたともされる。龐統の子龐宏が陳祗を舐めた態度を取るので圧力を掛けて昇進させなかったなんて話も。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月18日
4月14日の更新情報
記事数が744になりました。
追加項目:華佗・譙周
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華佗:後漢書では方術伝に記載がある。方術とは占いや不老不死の技術、医術等の総称。怪しげと言ったら言い過ぎだけど、技術者みたいな感じで、いわゆる士大夫からは下に見られる。華佗はそれが不満で曹操の下から去り、処刑されることになる。陳珪から孝廉に推挙された時に応じておけばよかったのに。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月14日
譙周:蜀の儒者。天文・讖緯(予言)に詳しく、魏の簒奪や司馬昭の死を予言した。初めて諸葛亮と面会し、譙周が退出した後に諸葛亮の部下が笑い出したので、失礼だからそいつを処罰しろと他の部下が言い出したが、諸葛亮は「や、俺も我慢できなかったし」と庇った。寝癖ボサボサとかで面会したのかね?
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月14日
4月13日の更新情報
記事数が742になりました。
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馬良:四男というのは「馬氏五常」と字の「季」の文字からの推測。劉備が荊州南部を支配すると従事として取り立てた。入蜀の際には荊州に残る。諸葛亮にも同行しなかった。夷陵の戦いに従軍すると、荊州南部の異民族武陵蛮を懐柔し帰順させる(おそらく沙摩柯を含む)。劉備軍の大敗で馬良も敗死した。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月13日
夏侯覇:淵の子。七人兄弟の次男。司馬懿がクーデターを起こすと、自らの災難を恐れ蜀へ亡命する。父の仇の国なのに、思い切ったもんだ。弟の夏侯威は司馬氏に重んじられたので、覇の怖がり過ぎでは? という気もする。死期・死因共に不明だが戦死ではなさそう。何と関羽とかより先に諡号を貰っている
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月13日
4月11日の更新情報
記事数が740になりました。
追加項目:公孫晃・馬良
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公孫晃:康の長男。度の孫。父が死んだ時幼少だったため叔父の恭が継ぐ。晃は洛陽に半分人質として出て公孫氏の地位が保障されていたが、恭が無能で不満が高まっていた際に康の弟淵が太守の座を奪取する。晃は淵を危険と看做し討伐を進言するが却下。で、後から淵の叛乱に連座させられ処刑される気の毒
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月11日
馬良:故事成語「白眉」の由来の人。白眉と言っても「眉毛に白い毛が混じっていた」というレベルであり、真っ白だったわけではない。ファミコン版「天地を喰らう2 諸葛孔明伝」ではオープニングで「まゆがゆきをおいたようにしろく」とか書かれてありもっともらしくさらっと話を盛り過ぎである。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月11日
4月10日の更新情報
記事数が740になりました。
追加項目:公孫度・公孫康
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公孫度:幽州遼東の人。よく勘違いされるが公孫瓚の一族ではない。徐栄と友達だったので董卓から遼東太守に任じられる。度は地元で自家が侮られているのを知っていたので、赴任するなり名族を滅ぼしまくった。董卓死後は辺境のため半独立状態になり、曹操が与えた官職を不満に思い印綬を仕舞い込んだ。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月10日
公孫康:公孫度の子。度の死後遼東太守を引き継ぐ(本来太守は世襲ではない)。烏桓の指導者や袁煕・袁尚兄弟らが逃げてくると、曹操が怖いのでこいつらを殺して首を差し出し、襄平侯に封じられる。長男の晃は康が死んだ時幼少のため弟の恭が継いだが、恭は性・政的不能者だったため康の弟淵に簒奪さる
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年4月10日