8月15日の更新情報
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追加項目:鮮卑(リクエスト:南蛮や匈奴などの異民族の人物や文化)・烏丸(南蛮や匈奴などの異民族の人物や文化)・張羨・王濬
鮮卑:前漢の頃匈奴に東胡が滅ぼされ、生き残りが逃げ出した。烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となったという。匈奴が弱体化するとこれを圧迫するが、魏の頃は田豫とかボコボコにされて帰順していた。しかし晋代に指導者樹機能が現れ超大暴れする。でも最終的に晋に降伏した
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月15日
烏丸:烏桓とも。前漢の頃匈奴に東胡が滅ぼされ、生き残りが逃げ出し、烏桓山に逃れた勢力を烏丸という。匈奴に従属していたが、懐柔されて後漢に出仕し匈奴や鮮卑への尖兵となった。袁紹が朝廷の命令を偽造して印綬を与え懐柔したので流れで曹操と戦うも降伏し、内地に移住させられて騎兵として活躍。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月15日
張羨:零陵・桂陽・長沙と太守を歴任。人に遜らないので、劉表に嫌われていた。198年に張羨は前述三郡を纏め劉表に戦いを挑む。劉表は兵を差し向けるも張羨を破ることはできなかった。官渡の戦いの時に劉表は何してたの? と言われるが張羨と戦っていた。張羨はその後病死し勢力は劉表に滅ぼされる
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月15日
王濬:呉討伐の益州方面軍指揮官。別方面の指揮官王渾の指揮下に入る筈が無視して先行し孫皓を降伏させたため恨みを買い、危うく晋軍同士の戦いが始まる所だった。王渾が弾劾するも司馬炎が許したので王濬は功績を誇り暴言を吐くようになった。しかし范通に鄧艾みたいになりたいのかと言われて改めた。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) 2017年8月15日