8月16日の更新情報
これまでのエントリで指摘があった点やおかしいと後から気づいた点に修正を行います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
項目数が867になりました。
(ツールのほうで記事数カウントができるようになったのでそちらを参照したら自分でカウントしていたものと大きな違いがありそちらに従っています)
・削除
劉備:何事も自分でやりたい人のようで、ほぼ死ぬまで独立軍を関羽張飛以外には渡さなかった。諸葛亮が軍を率いるのは劉備死後。劉備は結構戦争うまいので劉備軍が小さい内は良かったが、夷陵では大軍だが劉備本陣しか指揮できないシステムにのため本陣が破られると統制不能・総崩れになってしまった。
入蜀や漢中戦で劉備は独立軍を関張以外にも渡していたではないか、というご指摘をいただき、たしかに入蜀戦後半や漢中攻防戦前半は関張以外に独立軍がありましたし、荊州南部平定時も劉備は多分自分で駈け回ってないよなあ、ということで単純に認識誤りから来ている記事ですので間違いのため削除いたします。
という趣旨で5月10日に消したつもりが残っていたので削除しました。
・削除
夷陵の戦い:222年劉備対陸遜 劉備がフラグ回収のように大敗したが最初から無謀だったのか? 既に曹操亡き中天下の最大戦闘経験値は劉備。劉備は何でも自分でやりたがる癖があり、その劉備が指揮を任せたのは関羽張飛だけ。張飛が急死したので緊急時に大軍の統制をする体制がなかったのだろう
これも張飛が~以下の部分について、じゃあ他所の軍はできていて当然なのかよというとそうでもないのでこちらも不適切ということで削除といたします。
5月10日の更新情報・2
記事数が831になりました。
孔融:『九州春秋』によると議論や訓戒は立派で読んでいる分には大変良いが実際に実行に移そうとすると無理な感じだったり、突拍子もない議論をする人を重用したりしているうちに袁譚に攻撃されてどうにもならなくなり一人で逃げて家族は捕まったとあり、後漢きってのクソリプマン感がすごい……。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 10, 2020
孔融:『続漢書』より。以前より曹操と楊彪の仲が悪かったが、袁術が皇帝を僭称したところ曹操が袁術と縁戚の楊彪を死刑にしようとしたので故事を引いて曹操を必死に諫め自分も魯国の男子(孔子思想の後継者と言いたい?)だからもう参内しないぞと脅して釈放を勝ち取った。これは光のクソリプマン……
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 10, 2020
孔融:曹操はついに208年孔融を処刑したが、合わせて布告を出した「孔融は罪に服した。世人は彼の虚名を取り上げ表面的なあでやかさにとらわれて事実を見極める者が少なく彼が風俗を乱していたことを考察しない」というような趣旨の内容で、一定の影響力があり曹操も軽視できなかったことがわかる。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 10, 2020
5月10日の更新情報
これまでのエントリで指摘があった点やおかしいと後から気づいた点に修正を行います。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
項目数が828になりました。
・削除
劉備:何事も自分でやりたい人のようで、ほぼ死ぬまで独立軍を関羽張飛以外には渡さなかった。諸葛亮が軍を率いるのは劉備死後。劉備は結構戦争うまいので劉備軍が小さい内は良かったが、夷陵では大軍だが劉備本陣しか指揮できないシステムにのため本陣が破られると統制不能・総崩れになってしまった。
入蜀や漢中戦で劉備は独立軍を関張以外にも渡していたではないか、というご指摘をいただき、たしかに入蜀戦後半や漢中攻防戦前半は関張以外に独立軍がありましたし、荊州南部平定時も劉備は多分自分で駈け回ってないよなあ、ということで単純に認識誤りから来ている記事ですので間違いのため削除いたします。
5月11日の更新情報
記事数が829になりました。
追加項目:高幹・郭援
高幹:袁紹は伯父。袁紹の下で并州刺史を務めるが、優秀だったようで、コネだけでその地位にあったわけではなさそう。鄴争奪戦中、袁尚の指示で郭援と共に、馬騰・韓遂・呼厨泉と結んで大軍で河東へ侵攻したり、曹操に一度降伏した後河北から関中までに渡る叛乱を起こすなどするがこの辺演義に記述なし
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 11, 2019
郭援:鍾繇は叔父。袁尚の下で河東太守を務める。高幹と共に呼厨泉と組んで曹操を攻撃。更に馬騰・韓遂とも組むが、鍾繇は郭援の欠点を知っており、張既と傅幹に説得させ馬騰・韓遂を引き戻した。郭援は馬超・龐徳と戦い首を取られ、鍾繇はそれを見て泣く。龐徳は謝罪したが、鍾繇は国賊ゆえ仕方なしと
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 11, 2019
5月7日の更新情報
記事数が827になりました。
追加項目:田豊・審配・辛評
田豊:悲劇の清廉な賢人、みたいなイメージが強いが、袁紹の冀州乗っ取りの際、韓馥から袁紹に乗り換えている。それは韓馥が田豊(ついでに審配)を剛直なので嫌っていたからでまあいいのだが、韓馥についていこうとした元同僚の耿武と閔純を暗殺したのはどうなんですかね。まあ乱世だしなあ......。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 7, 2019
審配:讒言飛び交うチームワーク最悪袁紹陣営にあって、孟岱・蒋奇・郭図・辛評に讒言されて窮地に陥ったが、以前から仲が悪かったはずの逢紀に熱く弁護されて窮地を脱し、仲良くなったという。感動的だな。しかしその後の審配の書簡を見るとまた仲悪くなっていると思われる。二人とも袁尚組なのに……
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 7, 2019
辛評:彼の名前は官渡の敗戦後、しかも審配の讒言の話で初めて出てくる感じ。辛評・郭図が袁譚支持で、審配・逢紀が袁尚支持(遺命偽造疑惑あり)。辛評・郭図は審配が嫌いなので、袁譚に袁尚を攻撃させたが反撃されて袁譚の負け。王修は袁譚に佞臣を斬れと言ったそうだが、まあ辛評・郭図のことよね。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 7, 2019
5月6日の更新情報・2
李典:将軍として知られるが、若い頃は学問を好み、軍事は好きでなく、師事して『春秋左氏伝』などを学んでいたという。曹操はこれを良しとして試しに人民を統治する職につけてみようということで、離狐太守となった。官渡の戦い後に裨将軍に任命され、博望坡の戦いなどで慎重な用兵を見せるようになる
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 6, 2019
曹丕:魏王即位直後、孟達が兵を率い降伏してきた。これを超優遇したため(孟達がイケメンだったことも関係があるという)、やり過ぎだし 、地方の軍権を任せるべきでないという意見が出たが、曹丕は「彼に異心はないことを保証する。毒を以って毒を制すだ」と反論した。当時はそうだったかもですけど…
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 6, 2019
曹丕:皇帝即位後のお話。曹丕が出かけようとして、馬を宮中に引き入れた。それを人相身の朱建平が見ていて、あの馬は今日死ぬ層が出ていると言った。曹丕がその馬に乗ろうとすると服に焚き込められた香の匂いを嫌って暴れ、最後には曹丕の膝に噛みついた。曹丕は超怒って即座にこの馬を殺したという。
— 偏見で語る三国志bot (@biased3594) May 6, 2019
5月6日の更新情報
以下のエントリーに問題があると思ったので削除します。
項目数が821になりました。
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劉備:盧植の下で公孫瓚と学友だった…どうなのかな。盧植は天下の顕官だったわけで、貧しく一族が後から皇族として出てこない劉備の親戚からそんな資金・コネが出てくるものか? 公孫瓚は太守に支援してもらっているからね。それに後々劉備は公孫瓚領から民を奪って去るし。学友にやることかよォ!?
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その後調べたところ徐州での人脈の広がりを考えると盧植に師事したのは間違いなさそうに思えました(盧植の兄弟弟子鄭玄・陳紀陳羣関連の人脈)。また、劉備は親族から資金援助を受けています(伯父の劉元起)。学友にやることなのかというのはそうですが。